ほんの些細な出来事だった。
偶然それを見た時、十代のまっさらな心に一点の染みの様なものが落ちた。
気付かない内に染みはじわじわと広がり、十代の心は黒く侵食されていく。
そしてそれが真っ黒になってしまった引き金も、些細な出来事だった。
Kiss kiss kiss me...Say YES!
「―――という訳で、俺と付き合ってくれ、吹雪さん」
朝から座学ばかりで、身体を動かしていなくとも、昼になれば自然と腹が空く。
昼休みの合図と共に購買へ走ってきている者達ばかりの正にその場所で、十代はこう言い放った。
吹雪は目を瞬かせて思考の逡巡を見せたものの、すぐにその目を細めて微笑んだ。
突っ込むべき箇所が多数あった発言に動じた様子もなく、彼は殊更あっさりと、
「良いよ」
頷いてみせた。
十代は飛び上がる程に喜び、流石吹雪さん!と彼を褒めちぎる。
「他ならぬ十代君の頼みだ。僕に出来る事ならしてあげようじゃないか」
「ありがとな吹雪さん!今日はこれから昼飯?お礼にドローパン奢るぜ!」
「いやいや、ここは僕が奢ってあげるよ。その方が効果的だろうし」
「話が早くて助かるな〜。やっぱ吹雪さんに言って良かった!」
至極嬉しそうにドローパンを選ぶ十代を、吹雪はいつもとは違う笑みで見詰めた。
それが酷く愛おしそうな表情に見えて、周りの女性からは悲鳴に似た声が上がる。
ファンクラブがあるだけはある―――吹雪はまたクスリと音に出して笑った。
「よしっ!これだけあれば納豆パンもキムチパンも入ってるだろ」
「おや、僕の好物を覚えててくれているとは。光栄だね」
「当たり前だろー、へへっ」
ドローパンを幾つも抱えて得意気に笑ってみせる十代から、さり気無くその幾つかを預かり受けた。
吹雪はこういう風に気を遣う事を、自然にしてみせる所があり、だからこそ人気も出るのだろう。
十代もそれを甘んじて受けた。
「んじゃ、何処で食う?」
「屋上に行こうか。今日は風も穏やかだしね」
「おう!」
そうして同じ歩調で隣同士を歩いていく二人を見送った後、購買は激震した。
この様子が瞬く間に学園全体に行き渡ったのも、無理の無い話であった。
亮がその話を耳にした時は、昼一の授業とその次の授業の間。
5分の休憩時間中、皆一様にして疑問や不安の目で亮を見てきて、
何故そんな風に見られなければいけないのかと思っていたが、成程どうして。
亮は軽く頭を抱えて、隣で静かに教科書を捲る親友―――吹雪を一瞥した。
吹雪はいつもの様に薄い笑みを湛え、亮の視線を受け流していた。
周りの空気に敏感な吹雪は、こうして亮が無言で話しかけている事にも気付いているのだろう。
いつもなら「どうしたの?」と声を掛けてきて、彼がこちらの話を引き出してくる筈だが、
そうしてこないという事は亮が言いたい事が何なのか、察知しているという事だ。
彼が切っ掛けを作ってくれなければ、亮としては話を振る事を躊躇してしまう。
そうしている間に始業のチャイムが鳴り響き、亮は視線で話しかける事すら出来なくなってしまった。
(ん〜、マイナス10点だね)
吹雪がそんな事を思っているとも知らずに。
夕暮れ時独特の色をした太陽が、海を染め上げる姿を一望出来る絶景の場所、灯台。
亮はこの場所で海を眺めるのが好きだった。
吹雪に関連した事を聞くのなら、彼の妹である明日香に聞くのが一番手っ取り早い。
そう判断した亮は、呼び出した明日香に海を眺めながら、事の顛末を聞いたのだが。
彼女も昼から流れ始めた噂―――で終わる話なら良い―――に困惑している様子だった。
「私もよく分からないのだけれど、どうも十代から兄さんに言ったらしいの」
「…十代が?」
「ええ、その、付き合ってほしい―――って」
寝耳に水だ。
驚愕に目を見開く亮に、明日香は慌ててかぶりを振り、それで、と続けた。
「十代と亮の関係は、この学園の皆が知っている事だから、可笑しいって話になったの。
確かに兄さんと十代は仲が良いけれど、それは私や翔君達と同じ意味でしょう?
きっと何かの間違いじゃないかって、私は思っているのだけれど―――」
「ああ………明日香、もう良い」
「ねぇ亮、私、今から兄さんに聞いてくるわ」
「聞く?」
「ええ。兄さんが何か企んでいるのかもしれないし。見過ごせないもの」
「しかし、」
「亮も十代に聞いてみたら?きっと笑い飛ばしてくれるわよ」
亮を元気付ける様に明日香は笑うが、亮は胸に靄が掛かった様な気分だった。
そんな亮には気付かず―――こういった所は吹雪と反対で―――それじゃ、と灯台に背を向けた。
(十代に、聞く―――――――――何を、どういう風に?)
去り往く明日香の足音が、まるで秒針の様に聴こえた。
感情に名前があるのは結構だが、今日程その種類を増やしてほしいと思った事は無い。
全く名前の思い当たらない感情が胸を渦巻く中、亮は十代に会う事も出来ないままに、
ブルー寮に戻ってきてしまうハメになった。
そもそも、名前がどうのと言う以前の問題で、この感情が何なのかという見当すら付かない状態だった。
溜息を吐きながら自室へと戻る時、嫌でも吹雪の部屋の前を通る事になり、
普段は全く意識しないその扉の前で、思わず立ち止まり食い入る様にドアノブを見詰める。
数秒か数分かは分からないが、亮は無言でドアノブを見詰め続けた。
それは動く事の無いまま、この日は終わりを告げた。
亮の朝は、十代からのモーニングコールで始まる。
始まる―――――――――筈だった。
教師が来る10秒程手前の、ギリギリ滑り込む形で遅刻を免れた亮は、肩で息をした。
隣では涼しい顔の吹雪が、頬杖をついて項垂れる亮を見ていた。
「おはよう、お寝坊さん」
「………………………」
亮は吹雪の嫌味に何も言い返せなかった。
単純に息苦しかったというのもあるが、それよりも言葉が見付からなかった事の方が大きい。
十代からのモーニングコールが無かった為に、亮は吹雪の言う通り寝坊をしてしまった。
亮は小刻みに深呼吸を繰り返しながら、吹雪を一瞥した。
彼は相変わらず人の良い笑みを湛えていたが、先程の挨拶以降、亮の方を見向きもしていない。
思えば、昨日の昼―――要するに例の噂が立ってから、吹雪は亮との接触を避けている様に思う。
昨日の放課後はさっさと教室から出て行ってしまうし、今朝とて一緒に登校する事もなかった。
亮が時間になっても部屋から出てこない時は、無条件で入り込んでくるというのに。
そしてようやく亮は気付いた。
昨日の昼から、一度も十代に会えていない事に。
灯台に身体を預ける様にして眺める海は、亮の心を落ち着けてくれる。
亮は早々に明日香に連絡を取った。
吹雪を問い詰めると言っていた彼女が、何か収穫を上げていないかと期待して。
しかし亮の期待に反して、彼女は酷く申し訳なさそうに、「私からは何も言えない」と首を振った。
どういう事なのか、亮には理解出来なかった。
吹雪、もしくは十代に口止めをされたとも思えない。
もし最悪の結果だった場合、彼女は最初にそれを言うだろうから。
そうでなかった事に安堵すれば良いのか、理解不能な今の状況に焦燥すれば良いのか。
昨日から何度も口から漏れる溜息をもう一度だけ吐き、亮は緩く頭を振った。
一度ブルー寮へ帰ろうと、亮が灯台に背を向けると、彼の目に信じられない情景が飛び込んできた。
吹雪と―――十代が、腕を組んで、仲睦まじく歩いていたのだ。
目が、カッと熱くなった。
気付けば全速力で駆け出していて、ものの数秒で吹雪の腕を引き、十代から引き剥がしていた。
「―――どういう事だ」
吹雪の腕は放さないまま、亮は低い声で二人に問いかけ―――十代を責め立てた。
「何故吹雪といる?昨日からの噂は何だ?俺に言えない事なのか!?」
滅多に表情を変える事の無い亮の顔は、誰もがそうと分かる程、怒りに満ちていた。
約1日しか間を空けていないにも関わらず、随分と長い間、十代と離れていた気がする。
十代が傍にいるだけで、いつもなら自然と笑みが出ていたが、今はとてもそんな顔は出来ない。
みっともない程に、十代と吹雪に対する怒りしか湧いて来なかったというのに。
十代の顔は―――何故か、歓喜に満ちていた。
「んー………まあ、及第点かな」
吹雪がそんな事を呟いた。
亮は意味が分からなかった。
怒りも何もかもが疑問に取って代わり、自然と腕の力が緩んだらしい。
吹雪が真っ先に亮の腕を振り払った。
「あー痛かった!亮君てば酷いなあ、もう」
態とらしく掴まれていた部分を擦りながら、吹雪は亮を半眼で見る。
それを皮切りに、十代が「カイザー!」と嬉しそうに声を上げて亮に抱きついた。
―――久しぶりに、十代に触れた気がした。
「………一体、どういう事なんだ」
「うん。まあ結論から言わせてもらえば、別に僕と十代君は付き合ってない」
そう断言したので、亮は開いた口が塞がらなかった。
吹雪は構わず続ける。
「僕と十代君の間にそういう感情は無いって、お互い言い切れるから安心してよ。
君は一応、合格点には達したから、ネタばらししてあげる」
「合格点?ネタばらし?」
「僕が言えた義理じゃないと言えばそうなんだけど、君の周りには、いつも遠巻きに女の子がいるんだ。
まあ、君は無自覚かもしれないけど…それが余計に質悪いから気をつける様に。
君が心を許してる女の子と言えば、明日香くらいだね。
で、その明日香だけど、君たち、会う時は大抵二人きりで会ってるだろう?
明日香経由で、十代君の事を相談しているって事は知ってるけれど、
そういうのはもう少し考えて行動した方が良い。
これは明日香にも反省の点があったから、昨日の内に注意しといたけどね」
捲くし立てている訳ではなかったが、吹雪の言葉には言い返す余地も無かった。
完全に、亮が悪いのだ。
吹雪が何を訴えていたのか、ようやく合点がいった。
彼は態と自分からは話しかけず、亮から問い詰められる事を待っていたのだ。
「いやあ、ごめんねー十代君。うちの明日香も鈍感で」
「良いんだ、ありがとな吹雪さん」
「いやいや!…亮、十代君が何でこんな事したのか、分かったかい?」
「ああ………嫌という程にな」
「ははっ、良いね、その嫌悪感たっぷりの顔!じゃ、僕はこの辺で」
軽く手を振って去っていく吹雪の背を見送り、亮は未だに抱きついたままの十代を抱き締めてやった。
「ごめんな、カイザー」
「いや、どうも謝るのは俺の方らしい」
「ん………明日香と会うな、なんて言わないけどさ。でも、あんま、触れ合うのとか、やめてほしい」
緩慢な動きで亮から少しだけ離れ、十代は彼を見上げた。
眉を八の字に曲げて、何処か寂しそうに言う十代に、亮は一瞬首を傾げる。
「この前、偶然アンタが明日香を抱き締めてるのを見ちまってさ」
「明日香を?」
何を言われているのか分からなかった亮だが、覚えがあったのか、即座に違う、と否定した。
「あれは明日香が躓いてしまったのを助け起こしただけだ」
「うん、そうなんだろうなってすぐに分かった。でも…凄く嫌な気持ちになったんだ」
そう言われて、亮はああ…と痛感した。
たった今、亮が感じたものと同じだと気付いたからだ。
狂える程に怒りや焦りを感じる―――嫉妬。
亮はずっと、吹雪に嫉妬していた。
だのにそれに気付かなかったのか、それとも妙なプライドでもあったのか。
二人に問い質して、返ってくる答えが怖かったのか。
(それはつまり、自分に自信が無かったのだ、俺は)
十代が己を好いていてくれている自信。
もしそうでなくなった時、彼女を引き止めておける自信。
そして、何より自分を惨めにしてまで、二人に入り込んでいけなかったのだ。
(俺は十代より自分を取ってしまったという事か)
自分が情けなくなり、亮は顔に手を当てて猛省した。
亮が何を思っているのか、感覚で分かったのだろう。
十代はこういう場面では、亮より聡い。
「なあカイザー。………嫉妬、した?」
「ああ………………血が沸騰するかと思った」
「へへ。なあなあ、キスしてくんねぇ?」
至極嬉しそうに、十代は亮の腕を引っ張り、強請った。
無邪気とは程遠く、しかし妖艶とも言い難いそのおねだりに、亮は眩暈を覚える。
しっかりと地に足を付けて、亮は十代の後頭部に手を回した。
(こんなちっぽけなプライドなら、何処かへ行ってしまえ)
小さく触れた唇から、じわりと嫉妬が溶けていった。
end.