それはいつものように十代が亮の見舞いに来た日の事だった。
コツコツと靴音を鳴らし、廊下を歩くその手には数本の花がある。
ここに来る途中の上り坂でひっそりと咲いていた野花だった。
普段なら目の端に入れるぐらいで摘もうとは思わない十代だったが、珍しく興が乗り、亮の為に手折ってきたのだ。
亮の病室には翔が毎日活けている美しい花があるが、野花はない。
たまにはこんな可愛らしい花も良いだろうと十代はクスッと笑った。
花を見て微笑んでくれるだろうと想像しつつ病室前まで来ると、右手に持っていた花を左手に換え、ドアを静かに開ける。
すると、ちょうど亮がベッドから立ち上がり車椅子に座ろうとしている所だった。
十代はそれに驚いて、ドアを開けた体勢のまま止まってしまう。
しかし介助バーを掴みながら座ろうとするも、足が震えてグラグラしているその危なげな姿に十代は慌てて近寄り、支える。
そのままゆっくりと腰を下ろして安定が取れると、十代と亮は同時に安堵のため息を吐いた。
「ありがとう、十代。助かった」
「どーいたしまして・・・。ていうか何一人で座ろうとしてんだよ。すっげービックリした・・・」
「今日は身体の調子が良いから動けるかと思ってな。驚かせてすまない」
「無茶すんなよ。アンタずっと体動かしてないんだぜ?筋肉とか前より衰えてるんだからさ・・・」
「・・・」
座る動作すら覚束ない体に気落ちしたのか亮は顔を俯かせる。
それを慰めるように十代は優しく背を撫でた。
「大丈夫だよ。今は無理でもリハビリしていけば、きっと動けるようになるさ」
「・・・そう、だな」
十代の言葉に無理して微笑む亮。
その痛々しい笑みを見て、十代はどんな慰めの言葉も今は亮にとって負担にしかならない事を悟った。
亮の心臓はいつか治るだろう。
心臓に負担が掛かるような事ばかりしたせいで正常に働いていないが、落ち着いた生活を送れば元通りになる。
だが、それがいつになるか分からない。
動けば血液の流れが速くなり、心臓に負荷が掛かってしまう。
だからあまりリハビリが進まず、ますます筋肉は衰えていった。
もどかしい身体に一番傷付いているのは亮なのだ。
車椅子に乗って動かしてもらわなければ外にも行けない迷惑を掛ける体。
十代と翔は迷惑なんて思っておらず、むしろ役に立てる事が嬉しいのだが、亮にとっては心苦しいものなのだ。
亮の苦しい想いが分かってしまった十代は背を撫でる手を止め、黙ってしまう。
どうにかして亮の負担を取り除いてやりたい。
十代は昔より難しい事が思考出来るようになった頭で考えを巡らす。
その時、渡すのを忘れてずっと握っていた野花が目に入った。
この野花は上り坂で摘んだモノ。
上り坂を上った先に亮が療養している建物があるのだが、そこは本来だと温泉施設として活用されている。
十代はその温泉を一度だけ使用した事があった。
あの時はカイバーマンとデュエルして大変だったなぁといらない事まで思い出し、頭を振る。
だが、温泉がある事を思い出したおかげで十代は良い考えを思い付いた。
「亮、これ。さっき摘んできたんだ」
「ほう・・・。お前が花を持ってくるなんて珍しいな。いつもだったら食べるモノを持ってくるのに」
「アレ、見舞いの品になってねぇだろ?毎回全部オレが食べてんじゃん。それに食べモン持って来たってアンタが食べられない事に気付いた」
「そう言えば、そうだな。だが、俺はお前が美味しそうに食べている姿を見れるだけで充分嬉しいぞ」
「・・・バカ。まるで孫を見るジジイと同じだぜ」
目を細めながら幸せそうに言う亮に十代は頬を赤く染め、憎まれ口を叩いた。
昔とは違う反応に亮は時の流れを実感したのか、感慨深そうに十代の髪の毛を撫でる。
背丈や雰囲気は変わったが、相変わらずの猫っ毛な手触りに亮は深い笑みを浮かべた。
「頭、撫でるなよ・・・。子供扱いしてるのか?」
「子供扱い?違うな。可愛いから愛でているだけだ」
「は、はぁ・・・ッ!?も、亮!からかうのはやめてくれ!」
顔を赤くして亮の腕が届かないよう車椅子の後ろに回る十代に亮はクスクスと笑った。
憮然とした十代は黙って車椅子を押し、開けたままだったドアから廊下に出る。
そんな十代を見上げ、亮は今日はどこへ連れて行ってくれるんだと尋ねた。
「・・・温泉」
「行ってどうするんだ?俺はまだ湯には入れないぞ」
「んな事、分かってるよ。アンタには足湯に入ってもらおうかと思ってね」
「足湯?」
「そ。足湯。アンタ冷え症だし、効くと思うんだ。足を温めてマッサージすると良いらしいぜ。揉んだらさ、筋肉も刺激されるだろうし」
半身浴や全身浴は心臓に負担が掛かるが、足を少しの間だけ温めるなら大丈夫だろと十代は言う。
その言葉に亮は頷き、今日の予定は決定したのだった。
脱衣所まで亮を車椅子で運ぶと十代はあらかじめ施設で借りていた防水シートを手に持ち、先にドアの奥へと入っていく。
十代は湯気で曇る視界の中キョロキョロと見回し、浅い目の温泉に目星を付けると、その周りの岩場にシートを敷き、座っても濡れないようにした。
脱衣所に戻ると、十代は自身の背に亮をしっかりと背負ってその場所まで運ぶ。
そして支えながら下ろしてシートの上に座らせると亮の足元に跪き、パジャマの裾を捲り上げた。
昔と比べると明らかに痩せた亮の足に十代は一瞬、眉をしかめる。
手が止まった十代を見て、亮は苦笑いを浮かべた。
「十代。それぐらいは出来る。お前は着替えてこい」
「あ、ああ。そうだよな」
亮の言葉にハッと顔を上げると十代はそそくさとその場を後にする。
ドアが閉まる音が聞こえ、十代が出ていった事が分かると、亮はため息を吐いた。
自分でもこれはないなと思うその足。
十代にまた心労を掛けてしまった・・・と苦い想いを抱きつつも、亮は裾を膝小僧の上までちゃんと上げる。
その作業が終わると亮は辺りを見渡した。
在学中、全く利用しなかった温泉施設。
来た事がなかった故、こんなにも広い温泉だったとは知らなかったなと物珍しげに見る亮。
その背後から着替え終わった十代が近付き、ポンと肩を叩いた。
周りに気を取られて十代が戻って来ていた事に気が付かなかった亮はその振動に驚いて振り返る。
しかし、十代の姿を見てバッと勢いよく視線を外した。
「え、何?どうしたんだよ?」
「それは俺にとって刺激が強過ぎる・・・」
着替えてきた十代の格好は半袖・短パン。
いつもは隠されているその部位は日に当たっていないせいか、白く艶めかしい。
本来健康的な姿なのだが、十代に欲がある亮にとってそれはもう、自制心を破壊するモノだった。
一瞬だけでも目に入ってしまった事で亮は苦悩に呻く。
そんな亮を見て、十代はバカと呟いてデコピンするだけにとどめるのだった。
亮の煩悩が治まり、十代の格好を見ても平気になってからマッサージは始まった。
温泉に足を入れ、温まるのを待つ。
温まった後、温泉から足を出し、つま先からかかとに向けて常に心臓の方向へと一方向に揉み込んだ。
「足の裏は”第二の心臓”って言われてて、体の調子が悪いと汚れがここに溜まるらしいぜ。老廃物っていうんだったかな」
「くっ・・・」
「痛い?」
「少し・・・。いや、かなり痛い」
「かなり痛いって事はアンタ、相当老廃物が溜まってるんだよ。それがあると痛いんだって」
「どこでそんな事を覚えた?」
「ずっと前にやってたテレビで」
「そうか。・・・他の誰かにもやった事あるのか?」
慣れた手付きにもしかして・・・と嫉妬が生まれた。
その亮の嫉妬心を十代は敏感に感じ、即座に否定する。
「ない」
飾らない一言が亮の不安を霧散する。
十代を慕う輩が多いのは重々承知しているし、それに一々嫉妬していたら身が持たない事など亮はちゃんと分かっている。
だが、それでも愛する者が誰かを気にかけるだけでそんな建前は吹き飛んでしまう。
恋愛に対し未熟だった一年生の時とは違い、ずっと亮と付き合ってきた十代はそれを分かっていた。
十代だって嫉妬するのだ。
誰もが憧れる、優しくてカッコよくて強い男。
たとえヘルカイザーとなったあの時でも、危ない魅力に心惹かれる女性は数多くいた。
十代だけだと本人の口から聞いても、安心なんて出来なかった。
こうして独り占めしている時だけ、十代は安心出来るのだ。
オレだけを愛して、ずっと傍にいて欲しい・・・なんて、素直に言えなくなったが、それは十代の本心である。
そんな事を思いながら片足を15分程揉み続け、さて次の足に取りかかろうかとすると十代の耳に静かな寝息が聞こえてきた。
見上げてみると、気持ち良さそうに目を閉じている姿があり、十代はそんな亮を幸せそうに見つめたのだった。